ちょっと座れる場所を提供したい。
もっと言うと本当は、まだコミュニケーションの取れない赤ちゃんや、元気な盛りの幼児、あるいは様々な事情があって静かにしているのが難しい人とその付き添いの方が、いてもいい場所を提供したい。
これが、私の本当にやりたいこと。
「いてもいい場所」を作ること。
現状だと、子ども、老人、障害のある方、などは広く一般に開放された施設や設備を使用するのが難しかったりします。
ではどうなっているかというと、それ専用の場所にいるのが正しいとされているような気がします。
仕方ないだろ、と言われるかもしれないけど、私にはそれがよくわからないでいます。
子どもを持つのは自己責任、だから苦しみにも耐えろ、にもそもそも違和感があります。
でも、私が気になって仕方ないのは、介護の必要な家族を持った時の、介護者の人生。
だからここれは、実は、遊び場や休憩場所だけにとどまる話ではありません。
例えば。。
よく行くスーパーに、いつも大きな声を出している人がいます。
年齢はおそらく私より上で、私が見かけるときはたいてい近くにご両親と思われる方が付き添っています。
そういう時の、一緒にいる家族の顔を私は気にしてしまいます。
息子は今のところ、おそらく知的障害や麻痺などはありません。
でも、今後このままかどうかはわからない。
医療事故はいつ起きるかわからないし(知人のお子さんはそれにより脳性麻痺だかで寝たきりの生活を送っていますし、外傷的などのリスクも生きている限り誰にでも起こりえます)
脱線しましたが、今のところいわゆる五体満足である息子であっても、誰でも経験するただのイヤイヤ期であっても、いつも笑顔で世話をすることが、私はできていません。
例えば昨日はチャーハンを握って投げて…をされて、手を叩いてしまった。
虐待レベルではないし、これくらいはよく外でも見る光景だけど、虐待をしている人だって、虐待したくてしているわけではないのかもしれない。
少なくとも、初回の段階では。
子を持つ親が現状に不満をこぼし、批判されるとき。
その文脈は以下のようなものだと思っています。
・子どもを持ったのは自己責任。
・家族のある生活は幸せだ。
・そして、その幸せはオプションである(なくても生きていけるものを得たという意味で)のだから、困難にも耐え、自分の楽しみを二の次三の次にすべき。
・だって、子どもを持てなくて苦しんでいる人もいるのだから。
・生む前にわかっていたでしょう?
私も妊娠出産する前はそうでした。
妊娠中に入院しても、まだその考えでいました。
だから、無理をすることは、偉いことだと思っていた気がします。
そして、そうできない人を「根性なし」「やる気がない人」のようなレッテルを貼っていたかもしれません。
今ならわかります。
それは、強者の論理だったのだと。
社会的弱者の立場になって初めて、それがいかに思慮の浅いことだったかを痛感しています。
我慢やパワープレイのようなものにのみ価値を見出していたら、そうでない派の人の存在意義はなくなってしまう。
当時の私は、健常者なのに強者ではない人のことを、怠惰な人だと見ていたのでした。
一方で、障害があったり、明らかに社会的弱者とされている人のことは、明らかに守るべき存在として見ていたようにも思います。
大事なのは、守るではなくて(シーンによって守るもありますが)共存することなのに。
身体が動かなくても、デザインセンスがすごいとか、エラーの検出がすごく得意とか、私にできないたくさんのことを得意とする人がいる。
そういう、それぞれの得意を活かすこと。
それが本当の「いてもいい場所づくり」なのだと思っているし、私がこの数年感じていた、実現したい世界はそういうものなんだろうな。
自分だけでは到底できる気がしない。
誰かの力を借りたとしても、実現できるかがわからない。
だけど、この課題を解決できたとき、自分自身が本当に救われるようにも思うのです。
いてもいい場所があれば、挑戦もできるかもしれない。
失敗しても、存在していいのだから。
迷惑をかけても、ある人に嫌われてしまっても。離婚しても、生涯独身でも。
お店作りでスタートしようと思っている私のビジネスですが、実はそんな思いがあるのでした。