介護や育児など誰かのサポートをしていると、自分の思い通りにならないことが日常茶飯事。
本当はファンデを塗りたいのにBBクリームで済ませなくてはならなかったり、マスカラをしようとしていたら途中で中断せざるを得なくなったり。
本調子ではない自分を受け入れざるを得ない、そんな瞬間瞬間の積み重ね。
その積み重ねはいつしか、100点満点な自分を忘れさせる。
絶対になりたくないと思っていた生活感丸出しの母親。
自分が今まさにその状態にあることを自覚しつつ、とりあえずロンTにジーンズ(屈んだり抱き上げたりの動作の邪魔をしない)、ノーアクセ(子どもが引っ張るから)、ノーヒール(いつでも走り出せ、どこまででも歩ける)、で出かける自分。
それを自覚しながらも、深く考えない特訓をする。
そうやって育休期間を過ごしていたし、今も子どもといる時間はその傾向がある。
まず機動力、自分のことは最低限おかしくない範囲で済ませちゃう。
育児に対して犠牲的精神を持っているわけではない。
余裕がなさすぎて、目と手が足りないせいでこうなっている。
なので、同じくらいの年齢の子どもがいてスカートを履いている人を見ると尊敬してしまう。巻き髪も、華奢なアクセも。
そんなわけで、最近の私は今ボロボロの見た目をしている。
こまめにメンテしたくてセルフでがんばっているネイルも、はげかけている。直したいと思っていたのに、昨夜はあまりに疲れすぎて、なんとお風呂上がりの息子に服を着させている途中で寝落ち、気づいたら息子と二人リビングの床で朝を迎えていたくらい。←自分でも信じられない。
そんな私に先日、同僚がこんなことを言ってくれた。
『この人すごく〇〇さんに似てるなと思って、見てほしかったんです!モード系っていうか』
この一言のなにが嬉しかったか。
「モード系」この一語に尽きる。
なぜなら、今の私はカジュアルなりシンプルなり、どちらの意味にも取れそうな言葉で形容されることはあれど、モード系なんて言葉には恐縮してしまうような姿で出社してしまっているから。
だけどもともとは、シンプルで少しポイントがあって自分らしい(と自分で思っている)、そんなスタイルが好きだったんだ。
そんな自分から離れていることを、積極的に忘れようとしていたし、そんな自分がいたことすら、いつか思い出せなくなりそうだった。
育児のメイン担当をしている私たちは、新しい自分を知るし、自分以外の大事なもののことを知るし、だから、育児を通して新しい世界を知る。
それはとても尊くて貴重な体験なんだと言い聞かせる一方で、時に失ったもののことを思い、もうそこに永遠にアクセスできないような気持ちになり、だけど育児を言い訳に過去のそういったものものに未練を感じたくなくて、私の場合は封印していた。
だけど、少しづつ失うことや、少しづつ諦めることに慣れてはいけない。
きっと、時期の問題もある。噂によれば4歳からは楽になっていくという説も聞く。(信じてはいない)
だから、またその時が来たら、いつでも戻れるように。
その時が来るまで、仮に一時的にそれを手放すとしても、永遠に手放すのではないということを、忘れてはいけないのではないか。
と気持ちを新たにしていたら、以前スマホに保存したこんなツイートを思い出した。
小さいお子さんを持つ親御さんに、成人した子を持つ母親として自信持って声でかくして言えます。子育てが進んで行くに従って、ちゃんと少しずつ自分自身に戻れる。だから好きだと思う物事を捨てないで。心のなかにそっと保っておいて。宝物みたいに。
— りり (@7hiroriri) October 17, 2017
これを読んだとき、息子は新生児。
みんな母親にあれこれ聞いてくるけど、まだ育児論なんてあるわけないのに、わからないことだらけなのに…と途方にくれていた(けどそれを言いたくなくて平静を装うことに疲れていた)。
すごく脱線して、支離滅裂な文章になってしまいました。
なにが言いたいのかというけど、画面の先でこれを読んだ育児なり介護なりで自分のコントロールしきれない人生を今、生きている人に。
私やあなたの今の生活は、きっといつか、形を変えるのだと思います。
その時に、また自分を愛せるように、せめて自分だけは、自分自身をあきらめずに、忘れずに、今の修業期間をともに興味深く進んでいきましょう、ということ。
いいことを言ってくれた同僚に感謝しつつ、私はいつかかなえたい自分を目指して、この修業を邁進していく所存です。