6か月の息子、本日から慣らし保育がスタートしました。
息子の通う園では、「慣らし保育」ではなく「慣れ保育」と呼んでいて、どうやらそこにこだわりをもっているみたい。
息子が保育園に「慣れる」ための期間であって、「慣れさせる」ためのものではない、ということなんだと思う。
小さなことだけど、言葉はそのものを表すと思っているので、こういうこだわりはとても好きです。
余談だけど、だから、自分のことをブスなんでとか馬鹿なんでとか、自分なにもできないんで、とかって卑下する行為は(謙遜からスタートしたものだとしても)、自分で時分に呪いをかけているようなものだと思う。
そして歳をとるごとに確信しているのだけど、世の中のものごとは、驚くほど紙一重が多いんだな、ということ。
美人とブス、オシャレな人とそうでない人、成功者と犯罪者、善人と悪人。
例えば、私は二重だけど、子どもの頃は一重の目に憧れていた。
ちなみに今はどっちもアリだと思っているけど。
で、なぜそう思っていたのか?と考えていて。
たぶん母親が一重風の二重だったので、そのすっきりした目元こそ合格(美ではない)と思っていたように思う。
母は、自分にたいそう自信のある人だったから。
おそらく世代なのだろうと思うけど、彼女が決してそれを外で態度に出すことはなかったのだけど、だからこそ長女である私はきっとデリケートに感じ取っていたのかもしれません。
子どもにとって、母親の影響は本当に偉大なのだなと思う。
刷り込みという側面は、悪意のない新興宗教のようなものだ、とも。
つまり、私自身はまだどうという意見がない中で、彼女の好みを察して(流行りの言葉で言えば忖度して)、自分の好みを作り上げていたのだ、と。
それも無自覚に。
だって、今改めて考えると、美人とブスって本当に紙一重なんだなと思うから。
最近露出の多い切れ長の目の女優さん。
少し前なら、そして身ぎれいにしていなかったら、個性がなかったら、きっと全くキラキラしていないはず。
大事なのは、その人らしさであったり、身だしなみであったり、姿勢であったり、きっとそういうことなんだろうな、と。
自分を諦めた人って、やっぱり美しい、という言葉で形容されるケースは少ないのではないかなと思ったり。
ちなみに…。
今でも痛烈に思い出すことがあります。
自分が、自分で何かを生み出すことがとても苦手な子どもだったことを。
ちなみに私のその傾向は大人になるにつれ薄くなり、今では人と違うことを何とも思わなくなりました。
自分、というか自分の信じるものに自信が持てるようになってきて、変わりました。
そしてそうなったのは30くらいなので、アラサーという言葉の恐怖におびえる人には、大丈夫だよ、むしろ幸せだよ、と教えてあげたいと思ってたりします。
脱線しましたが。
で、そんなわけで、私は自分の好きや嫌い、あるいは創作といったものが苦手でした。
理由は簡単、正解がわからないから。
「普通の正解って何?」とうかがってしまう自分がいたから。
だから逆に、お勉強なんかはあまり苦手ではありませんでした。
こんなことを言うと、「日本の教育システムの悪しき例だ!」という話にうってつけな気がしますが、そうではありません。
だって、これから書く私の原体験は、保育園時代のことだから。
私が「普通の正解」を求める自分を認識した原体験となる出来事は二つあります。
まず一つめ。
お風呂でのことです。
母親とお風呂に入っていて、好きな色の話になりました。
たぶん私が、「お母さんの好きな色は?」みたいなことを聞いて。
「オレンジかな」と言われましたと。
今でも覚えているのだけど、私は当時オレンジが好きではなくて。
『えーオレンジ?』
と子ども心に内心思ったことを覚えています。
にもかかわらず!
「あなたは?」と聞かれて、答えたんですよね、「私もオレンジ!」って。
きっと子どもって、無邪気に親の真似をすることはよくあるんだと思います。
でもあの時の私はそうではなくて、親の意見をもとに、自分の好みを考えずにそっくりそのまま返したんだなと。
子ども心に、なにかそんな自分が嫌だなと思ったんでしょうね。
二つめ。
母親が読み聞かせをしてくれた時のことでした。
私は長女なこともあり、よく母親が読み聞かせをしてくれていたと聞いています。
それ自体はあまり覚えていないのですが、痛烈に覚えていることがあって。
その絵本は、最後のシーンが空白になっているものでした。
で、『この最後のシーンを自由に作ってみよう!』とかなんとか指示している絵本だったんですね。
これができなかった。
「なんでもいいよ、思いつくもので」とか言われた記憶があります。
それでもなんと言うべきかわからなかった。
『正解は何?』って一生懸命考えた記憶が、すごくあります。
それでも言えない私。
「雨が降りました、でもなんでもいいじゃん、言ってみな」と言われ、次第に母は怒りだしたのでした。
で、「もういい、なんでもいいのになんでできないの」みたいなことを言われ、ものすごく適当なことを言って、その日の読み聞かせは終了した記憶があります。
なので。
子どものころの記憶って、すごいなって。
このエピソード、私は大人になってからも度々思い出しては、自分というものを再認識したりするのです。
例えば、結婚式のあれこれを決めるシーンで。あるいは、息子の命名の検討で。
ちなみに。
今現在、私は母親からイマイチ好かれていないようなのですが、私は彼女のことを恨んだり、嫌ったりはしていません。
ただ、少し、悲しいかなと思うことはあるけども。親子なので。
つまり何が言いたいのかというと、言葉のパワーってすごい。
そしてそれは、ポジティブなことよりも、きっと、ネガティブなことの方がより影響力があるから。
だから毎日の話し方、自分への言い聞かせ、もちろん家族や子どもに対しても、ですが。
日々使う言葉は、自分も他人も変えてしまう可能性があるんだなって。
大事にしていかなくてはいけないんだと、子育て中の今だからこそ自戒を込めて。