この数日、老人2人のいる家の留守番を任されてきた。
(老人を残して外出する家主のために留守番)
その間、それは多くの気づきを得たのだけど、夜の授乳のお供に、簡単なものからまとめていけたらと。
まずは、お守りの対象となる老人2人のスペック。
大じぃじ(仮称)
・耳はほぼ聞こえない
・入れ歯のフィット感がイマイチ
・足元が不安
・全体的に老いによる機能不全が起きている
・が、これといった病気はない
・認知症などはなく、一応頭はしっかりしている
大ばぁば(仮称)
・耳が遠いが、大じぃじよりはマシ
・足腰も年齢なり(ただし年齢の割に元気というタイプでは決してない)
・認知症などはなく、頭はしっかりしている
以上が基本スペック。
ちなみにどちらもこれから介護認定の試験を受けるため、まだ介護の程度は不明。(要支援、など介護には段階がある)
で、思ったことについてつらつらと。
この2人の場合、食事を用意するなど、それなりのお世話はするものの、これは介護とは呼べない。と思う。
食事こそ作れない(火の元が不安なので作らせていない)ものの、咀嚼も排泄も自分ですることができる。
食欲に至っては、まだ30代の私よりも食べるくらいだ。
何が言いたいのかというと、介護認定で要支援になれるかどうかもわからないような老人2人であっても、共に生活するのは、(人目をはばからず言ってしまえば)ストレスが伴うものだということ。
介護と呼ばないレベルであっても、だ。
これって意外に知られていない気がする。
介護はいうまでもなく大変だ。
自宅介護というと、壮絶なイメージを持つ。
一方で、元気な老人以上介護未満、という家族を持つ人の苦労は語られる機会が少ないように思う。
私が彼らと過ごした数日で感じたのは、タイトルにある通り「コミュニケーション難度の高さからくるストレス」だ。
ちょっとした依頼や何かも、大きな声を出さなくてはいけない。
で、やってみるとわかるが、大きな声でフレンドリー、というのは案外難しい。
どうしてもキツい言い方に聞こえてしまうし、実際苛立ってしまうこともあるのでキツくなってもいるのだろう。
そして、人はやっぱりコミュニケーションなしには生きていけないものだと思う。
だから日常のなかで、そこに人がいるのに無言でいることは不自然だし、それはそれだけでストレスのあることなのかもしれない。(これは性格によるものも大きいだろうけど)
で。
人がいる、頭もしっかりしている、だけどコミュニケーションは難しい、という状況はかなりのストレスをもたらす。
何気ない会話をしようとしても、また大声を出すのもアレだし、まいっか、と飲み込む。
これを何度繰り返しただろうか。
本当はたくさんあったのだ。
話したいことが。
オリンピックの話でも、天気の話でも、ごはんのことでも。
でもつい、飲み込んでしまう。
これが毎日繰り返されることを考えたら、それって孤独だ。
静かな、やむことのない痛みを持ち続けていく行為だ。
ずっと治らないささくれのような。
と思ったとき、孤独の持つ恐ろしさ、その破壊力に気付かされた。
これって、小室哲哉さんの引退の時に一瞬取り上げられた介護の苦悩、それではないかと。
そしてそれは、育児でも、障がいのある方のサポートでも同じように言えることなのだと。
思ったことを何の気なしに話す。
そしてそれが通じ、相手からも自然な反応がある。
当たり前に思えるこれが、実はものすごい幸せだということ。
そして、それが得られないことが、こんなにも痛みをもたらすものだということ。
帰ってきて気がついた、旦那さんとのコミュニケーション。
喧嘩をしたまま出てきてしまったのだけど、それはそれは簡単に会話ができた。
これもまた月並みだけど、当たり前すぎると気がつかない幸せというのがあるんだなと。
そうそう。
ここからは余談ですが。
最近育児をするようになってわかったことの一つに、ほんとうの痛みは、どれだけ頭をひねっても、わかりきれない。というものがある。
ほんとうに自分のものとして体験した痛みだけが、真に理解できる痛みだと。
(これは子供を持たない人を批判するものではありません)
そうである以上、月並みではあるけれど、同じ境遇のつながりが助けになる。
私が児童館通いをする理由の一つもそれなんだと思う。
だけど。
だれかと繋がろう、同じ仲間を探そう、と思えている人はいい。
私のように、ツイッターや児童館で仲間に出会うことができる。
問題は、たくさんの痛みを同時に抱えていて、その解決策の一つである「つながり」に気づけていない場合。
(たぶんこれは、課題解決を模索するという点でインターネット検索のスキルと似ていると思う)
全く知らないことは検索できないし、解説策があると思えない、あるいは具体的な問題点が見えない場合には糸口にさえたどりつけない。
潜在的な悩み?苦悩?を解決するには、どういう助けがあればいいんだろう。
本当のクリティカルな問題は、そこにあると思うのに。