子供の頃、お年玉をもらうのが苦手だった。
というよりも、お年玉をもらった後のリアクションをするのが苦手だった。
だって…明らかにもらえることはわかっているし、そもそも親達もお互い様でもあるわけだし(私の親族にはみな子供がいた)。
だけど上手にできる子はいて、たぶん彼彼女は狙っているのでも義務感でもなく、自然と喜びを表現していた。
身近なところでは、私の妹。年下のいとこたち。先日この話をしたら、旦那さんもそうだったと言っていた。むしろ、喜ぶ以外の選択肢があるの?と。
最近時間があるので、一つ一つの事象を深掘りして考えることができる。
ベビーカーを押しながら散歩をしているあいだ、授乳中、バランスボールに乗りながらひたすらあやしている時間。
そうして考えていると、バラバラに考えていたことが一つにつながることがある。
そうしてわかったこと。
児童館になじめない自分と、お年玉に喜べなかった自分はつながっている。
私は、世間的に明らかに正解が決まっているものを、求められる通りに振舞わなくてはならないもの全般が苦手なのかもしれない。
たとえば。
・お年玉をもらった時のリアクション
・将来の夢についての作文
・写真撮影でのポージング
・明らかに奢られるのが自然な立場でお財布を出すこと
などなど。
『あなた、次に私のすることわかるでしょ?』というシーンが苦手なのだ。
児童館もそう。
月齢を聞き、相手の子を褒め、褒められ、住まいを聞く、という一連の流れがなんだか気恥ずかしいというか、控えめに言っても苦手なのだ。
これからこんな機会が増えていくんだろうな。
〇〇くんママ、と呼ばれることにも慣れて、世間が押し付ける【ママ像】への反発もなくなっていくんだろうな。
でも。
子供がいる生活なんて人生おしまい、と思っていた私が、今この生活も悪くないと思えている。
なんなら、こういう楽しさもあるよ、くらいに思っている。
もしかしたら、数か月後にはこの感覚もなくなっているのかもしれない。
新しい世界を見せてくれて、その意味で息子には感謝です。