安室ちゃんの引退で朝からワイドショー(情報番組?)が大騒ぎ。
その中で特にひっかかったこと。
息子が成人するので子育てもひと段落、女の幸せを叶える?という謎
違和感が強すぎるこの推測。
そもそも、
・子育てがひと段落のタイミングというのであれば、もっと早くない?(ただの区切りというならわかる。数字としての二十歳という区切り。)
・お付き合いしている人とのゴールを意識?という推測も余計なお世話だと思うが、それが【女の】幸せ?(好きな人と人生をスタートするというのなら、男も女も関係ないのでは)
・息子さんはどんな気持ちになるだろう。
この話の背景には、我慢を美談とする節があるのでは
最近ずっと感じている違和感なのだけれど、多くの人の中にこういった刷り込みがあるのではないだろうか。
大人というのは過酷なもの、仕事はつらいもの、結婚は過酷、子供を産んだら人生終わり。だけど、その苦しみと引き換えに特別な幸せを手に入れているかのような。
彼らの主張に沿うように考えると、安室奈美恵の人生のうち20歳‐40歳の期間は【女の幸せを諦めて】代わりに【仕事と育児に専念した時代】ということになるのだろうか。
我慢するから偉いんじゃない、という文化ができないとデスマーチが終わらない
働き方改革や女性の社会進出もそうだが、画一的な価値観がNOなのは、おそらく多くの人が共感するところだと思う。
それを足元の課題に落とし込んだ時、実現することの難しさがわかる。
これまで経験した会社から例を挙げてみた。
◆イケてないサラリーマンあるある
・いつも遅くまで頑張ってるよね という認め方
・早朝出社や在宅勤務よりも、夜に自席にへばりついて仕事している人間が評価される環境
・そのくせタバコミュニケーションは許容される
・有給消化していない人間の方が偉い感
・時短勤務の人は帰るときになぜか「すみません」と言ってしまう
・俺たちの時代は残業〇〇時間なんか当たり前だった
・俺たちの時代はそんなのパワハラなんて言えなかった という自慢
これが存在する以上、何か幸せのようなものを手にした場合は、仕事がしにくくなるなど、要は複数の幸せを手に入れることは難しいということになる。
(子供いるから仕方ないよね的な)
だけど私も、わかっていても長いものに上手く巻かれて生きてきたんだ
上のような現象を、イケてないことだという認識はあった。
あったけれども、例えば数字がいっていない時、ポーズのように無理をしている様子を見せていたと思う、意図的に。
あの人頑張ってるし、なんとかしてあげたい!と思ってほしかったのか。
時短勤務の方に配慮するふりをしつつも、時短ではない自分に優越感のようなものを感じていたこともあった。(最低だ)
できることなら一生子供を産まずにすめばいいのにと、思っていたのも無理はない。
だけどそれは、しがみつくことができる立場の人が、何とかうまくやるための方法であって、実際に何かハンディキャップを背負った人がやろうと思ってもできるものではない。(ここではハンディ=育児や介護)
痛みを自分ごととして経験することで見えた世界
今回予定通りではないといえ、妊娠したことにより見えた世界というものがある。
その中の一つに、果たして無理をして、会社に申し訳ないような顔をして、それでもサラリーマンという形にこだわる必要があるのかということ。
安室ちゃんの引退の例で言うと、子供のために20年頑張りました、という形をとること。※彼女がそう選択したいうことではなく、社会がそう見ることについて。
もっと自由になっていいし、家族という単位で見るならば、その家族全体の幸福度を最大化することが重要なんではないかと思う。
そのための最適解が彼女の場合は今回のような選択だったという話ではないだろうか。
なんだか報道の仕方に違和感があり気分が悪かったのだが、
彼女の引退どうこうや報道が問題なのではなく、漠然と抱いていた働き方や我慢に対する世の中の姿勢が自分にとっては問題で、今回のことはきっと他人から見るとつながらない話なんだろうな、と自己完結に至った。
きっといつかまた気分が変わることもあるだろう。
だからこれは備忘として残しておく。