今はいい時代だと思う。
インターネットやSNSが怖いという人もいるけれど、これらによって、【世界中のどこかにいるが自分の周りにはいない】という人たちとつながることが出来る。
それにより、自己肯定できる。
なぜそこに価値を感じるか?と考えた時、きっと私は常に多数側の人間を目指していたのだとわかった。
子供時代~高校まで、私はずっと「普通」を目指し「普通」に憧れ続けていた。
小学生の頃は、みんなが見ているテレビを見ていたし、高学年になればドラマやジャニーズのようなものにハマるのが自然だと思っていたからそれにハマった。
別に優秀な子供ではなかったはずだが、例えばテストなどは早く終わりすぎてしまい、それを悟られることのないように考えているふりをし、それでも暇なので頃合いを見て提出していた。
わざと間違えるというようなこともたまにしていた。
それから。
今でも覚えているのだけど、保育園から子供たちが質問され続ける、将来の夢。
この答えが本音だったことが、私には一度もなかった。
かわいくない子供だと言われるかもしれないが、保育園で初めてその質問をされた時には、女の子みんなが答えているものを選んだ。
一年目はケーキ屋さん、二年目はお花屋さんだ。※二年保育だったため
それは小学校の卒業文集でも変わらなかったし、中学校でもそうだった。
小学生の時はふざけた人ぶって適当なことを書いたし、中高ではどちらも教師と書いた。
というのも、私の育った地域の正しい道というのは、長男長女は最終的には家に入り家を継ぐことだったからだ。
田舎なので、大学を出た人間の勤務先というのが教師か市役所しかなかったのだ。
教師と書くことで、それ以降の文章を読む必要がないくらいに周りからの理解?共感?を集めることができた。
社会人人生のスタートを一般企業で開始したことで、またその中で素敵な出会いに恵まれたことで、私の人生や考え方は大きく変わったと思う。
帰るつもりはないし、こういった人たちと接し続ける人生が気持ちいいと思う。(だけどそれは地元の友人には言えない)
と、自分の考えやありたい状態は定まっていても、それを縛り付けるのが古くからの日本社会の風習であるとも思う。
地元に残る人間のことが気がかりでならないし、彼女達にはもっと広い可能性があるにも関わらず、それを知ることもなく、手掛かりを感じることもないので調べるにも至らず、そのまま『平凡な毎日が一番の幸せ。』の呪いに侵されていく。
だからと言ってこちらからの提案(様々な働き方や離婚や別居等の判断をすることなど)は、突拍子もないこととして理解されないのだから、どうしたらよいのかわからない。
全員が無知であり続けることによって、思考停止することによって、幸せだと言い続けていく、そんな感じ。
そういえば幼い頃祖父が言ったこの言葉に低学年ながら違和感を持ったものだ。
『東京になんて住みたくない。空気もまずいし、ここが最高だ。』
笑ってしまう。あなたは何を知っているんですか?
でも、それが地元の大人みんなの意見だった。
旅行は別として、彼をはじめ大半の人間は地元以外の土地で住んだことも働いたこともなかったし、そういった環境から人を迎えた経験もほぼなかった。
小さなコミュニティ内で繋がり続け、結婚し、その血を濃くし、地元が最高なんだと思考停止して幸せを言い聞かせ続けるのだ。
そしてたまに戻ると、東京はいいよなとか東京なら…などと言われるのだ。引っ越せばいいだけの話なのに。
あなたにそこに住んでくださいとお願いするものは、基本的には何もないのに。
私にはもう戻る理由がなく、だけど今地元に縛られるというジレンマを抱えている。
だけど、これすら振り切るべきなのだと思っている。
実際親族には冷血だと思われているが、もうどうでもいいのだ。下手な我慢が何かを生み出すことは、ほとんどないのだから。