30代中盤。妊娠出産育児と新生活

妊娠、出産、育児とそれに関わる働き方について。備忘録的に。

言葉の魔法と呪い

6か月の息子、本日から慣らし保育がスタートしました。

息子の通う園では、「慣らし保育」ではなく「慣れ保育」と呼んでいて、どうやらそこにこだわりをもっているみたい。

 

息子が保育園に「慣れる」ための期間であって、「慣れさせる」ためのものではない、ということなんだと思う。

小さなことだけど、言葉はそのものを表すと思っているので、こういうこだわりはとても好きです。

 

余談だけど、だから、自分のことをブスなんでとか馬鹿なんでとか、自分なにもできないんで、とかって卑下する行為は(謙遜からスタートしたものだとしても)、自分で時分に呪いをかけているようなものだと思う。

 

そして歳をとるごとに確信しているのだけど、世の中のものごとは、驚くほど紙一重が多いんだな、ということ。

美人とブス、オシャレな人とそうでない人、成功者と犯罪者、善人と悪人。

 

例えば、私は二重だけど、子どもの頃は一重の目に憧れていた。

ちなみに今はどっちもアリだと思っているけど。

 

で、なぜそう思っていたのか?と考えていて。

たぶん母親が一重風の二重だったので、そのすっきりした目元こそ合格(美ではない)と思っていたように思う。

母は、自分にたいそう自信のある人だったから。

おそらく世代なのだろうと思うけど、彼女が決してそれを外で態度に出すことはなかったのだけど、だからこそ長女である私はきっとデリケートに感じ取っていたのかもしれません。

 

子どもにとって、母親の影響は本当に偉大なのだなと思う。

刷り込みという側面は、悪意のない新興宗教のようなものだ、とも。

 

つまり、私自身はまだどうという意見がない中で、彼女の好みを察して(流行りの言葉で言えば忖度して)、自分の好みを作り上げていたのだ、と。

それも無自覚に。

だって、今改めて考えると、美人とブスって本当に紙一重なんだなと思うから。

 

最近露出の多い切れ長の目の女優さん。

少し前なら、そして身ぎれいにしていなかったら、個性がなかったら、きっと全くキラキラしていないはず。

大事なのは、その人らしさであったり、身だしなみであったり、姿勢であったり、きっとそういうことなんだろうな、と。

自分を諦めた人って、やっぱり美しい、という言葉で形容されるケースは少ないのではないかなと思ったり。

 

ちなみに…。

今でも痛烈に思い出すことがあります。

自分が、自分で何かを生み出すことがとても苦手な子どもだったことを。

 

ちなみに私のその傾向は大人になるにつれ薄くなり、今では人と違うことを何とも思わなくなりました。

自分、というか自分の信じるものに自信が持てるようになってきて、変わりました。

そしてそうなったのは30くらいなので、アラサーという言葉の恐怖におびえる人には、大丈夫だよ、むしろ幸せだよ、と教えてあげたいと思ってたりします。

 

脱線しましたが。

で、そんなわけで、私は自分の好きや嫌い、あるいは創作といったものが苦手でした。

理由は簡単、正解がわからないから。

「普通の正解って何?」とうかがってしまう自分がいたから。

だから逆に、お勉強なんかはあまり苦手ではありませんでした。

 

こんなことを言うと、「日本の教育システムの悪しき例だ!」という話にうってつけな気がしますが、そうではありません。

だって、これから書く私の原体験は、保育園時代のことだから。

 

私が「普通の正解」を求める自分を認識した原体験となる出来事は二つあります。

 

まず一つめ。

お風呂でのことです。

母親とお風呂に入っていて、好きな色の話になりました。

 

たぶん私が、「お母さんの好きな色は?」みたいなことを聞いて。

「オレンジかな」と言われましたと。

今でも覚えているのだけど、私は当時オレンジが好きではなくて。

『えーオレンジ?』

と子ども心に内心思ったことを覚えています。

にもかかわらず!

「あなたは?」と聞かれて、答えたんですよね、「私もオレンジ!」って。

 

きっと子どもって、無邪気に親の真似をすることはよくあるんだと思います。

でもあの時の私はそうではなくて、親の意見をもとに、自分の好みを考えずにそっくりそのまま返したんだなと。

子ども心に、なにかそんな自分が嫌だなと思ったんでしょうね。

 

二つめ。

母親が読み聞かせをしてくれた時のことでした。

私は長女なこともあり、よく母親が読み聞かせをしてくれていたと聞いています。

それ自体はあまり覚えていないのですが、痛烈に覚えていることがあって。

 

その絵本は、最後のシーンが空白になっているものでした。

で、『この最後のシーンを自由に作ってみよう!』とかなんとか指示している絵本だったんですね。

これができなかった。

 

「なんでもいいよ、思いつくもので」とか言われた記憶があります。

それでもなんと言うべきかわからなかった。

『正解は何?』って一生懸命考えた記憶が、すごくあります。

それでも言えない私。

「雨が降りました、でもなんでもいいじゃん、言ってみな」と言われ、次第に母は怒りだしたのでした。

で、「もういい、なんでもいいのになんでできないの」みたいなことを言われ、ものすごく適当なことを言って、その日の読み聞かせは終了した記憶があります。

 

なので。

子どものころの記憶って、すごいなって。

このエピソード、私は大人になってからも度々思い出しては、自分というものを再認識したりするのです。

例えば、結婚式のあれこれを決めるシーンで。あるいは、息子の命名の検討で。

 

ちなみに。

今現在、私は母親からイマイチ好かれていないようなのですが、私は彼女のことを恨んだり、嫌ったりはしていません。

ただ、少し、悲しいかなと思うことはあるけども。親子なので。

 

つまり何が言いたいのかというと、言葉のパワーってすごい。

そしてそれは、ポジティブなことよりも、きっと、ネガティブなことの方がより影響力があるから。

だから毎日の話し方、自分への言い聞かせ、もちろん家族や子どもに対しても、ですが。

 

日々使う言葉は、自分も他人も変えてしまう可能性があるんだなって。

大事にしていかなくてはいけないんだと、子育て中の今だからこそ自戒を込めて。